小田原城の歴史
小田原城の歴史は古く15世紀の大森氏による築城から数えて約500年以上も存続してきた城と言われます。戦国時代では小田原北条氏(以下北条氏)の居城として関東で覇を唱え、江戸時代を迎えると小田原城は戦国時代の土で構成した城から高石垣や白壁、瓦を持つ建築物で構成する近世の城として生まれ変わります。ですが、その領域は現在のJR東海道線よりも東の低地部のみとなり、西の丘陵地は御留山として人の出入りが禁じられ、その結果、小田原城は中世戦国時代と近世江戸時代の城の遺構が残る城となり、500年以上も歴史がある城としては全国でも稀な存在となりました。 又、江戸時代に関東で天守を認められた城は江戸城と小田原城だけであり、明暦3(1657)年、江戸城天守が焼失した後は江戸城天守が再建されず、廃城を迎えるまで小田原城天守は関東唯一の天守として存続したのです。
話を戦国時代に戻すと、北条氏の築いた城の特徴として障子堀が見られます。障子堀とは各所に障壁としてわざと掘り残しをつくり、この障壁を堀障子といいます。堀道として敵兵の進行を妨げる効果があるだけでなく、関東ローム層に形成した障子堀は雨水の保水能力があり、雨量の多い時期では高地や傾斜地においても堀障子による小規模のダムが連なる水堀を配することを可能にしたのでしょう。 天正18(1590)年の豊臣秀吉来攻時では本城小田原城を含む城下町全域を堀と土塁で囲み総勢十数万の秀吉軍に北条氏は対抗します。その規模は全長約9㎞にも及び、これを小田原城総構(そうがまえ)またの名を大外郭といいます。秀吉軍は小田原城攻略に苦戦し篭城戦は約100日を数え小田原合戦終結後、小田原城総構の堅固さを知った秀吉をはじめ参陣した武将たちはこぞって自身の居城に総構を築き、その中では発掘調査で障子堀が検出した城も見られます。
この総構は北条氏が滅んだ後も存続し、江戸時代では府内構(ふないがまえ)と呼ばれ、廃城後の小田原町の範囲は総構の範囲でした。総構の領域は現在の小田原駅周辺の市街地の領域も含まれています。つまり小田原の町は町全体がお城なのです。
こうした小田原城の歴史的な位置づけは一般には深く知られておらず惜しまれます。小田原城の歴史を知ることは小田原のまちの歴史を知ることにつながります。その中心に聳え立つのは白亜の天守であり、小田原の町の象徴、ランドマークタワーです。歴史と文化を誇る小田原の町に相応しいのは木造の本物の天守ではないではないでしょうか?
当会では小田原城天守の木造化の推進及び、小田原城歴史講座の開催をまちづくりの一環として考えています。現地における見学会と学習講座を催し、講師には小田原城研究の第一人者である田代道彌さんをはじめ小田原城郭研究会の方々をお迎えします。
小田原城を知り大切に保存していきましょう。