家光も愛した小田原城天守閣 〜天守に託された絆と美〜

家光も愛した小田原城天守閣 〜天守に託された絆と美〜

時は江戸。三代将軍・徳川家光が天下を治めていた時代のこと。 壮麗を極めた江戸城を手にした家光だが、彼の心を本当にとらえたのは、江戸城のそれではなく小田原にそびえる、あるひとつの天守閣だった。 「この天守閣がいい。これこそが、私の理想だ。」――家光が、心から愛した天守閣。それが、小田原城の第二期天守――後に「正保図」にも描かれた、美しい天守閣だ。

江戸の将軍が憧れた、美の天守

この天守は、二層・三層に渡って鮮やかな朱塗りの高欄がめぐらされ、月明かりに照らされれば、まるで極楽の楼閣のように浮かび上がったことだろう。 江戸城天守閣は祖父家康が建て、その後父秀忠も再建しているが、家光は改めて江戸城天守を建てるなど完璧主義者だった。その彼が、「これこそ我が理想」と絶賛したのが、この小田原の天守だった。

家光と小田原城を結んだ「絆」

だが、なぜ小田原城なのか?――そこには、将軍家と小田原の城主・稲葉家との深い絆がある。 稲葉正勝は、家光の幼なじみ。乳母であり育ての親でもある春日局の子として、家光とほぼ同時期に生まれ、共に育った仲だった。家光にとって、正勝は他人ではなかった。 しかし、不幸なことに正勝は地震の混乱の後に命を落とし、跡を継いだ正則はまだわずか12歳。通常であれば、城の修復は藩主の責任。しかしこのとき家光は特例を設け、幕府の費用――「官金」で小田原城の再建を命じた。 これは極めて異例の措置。それだけ、家光にとって稲葉家は特別な存在だった。

家光の「夢」を託した天守

再建にあたり、小田原城には幕府の役人たちが派遣され、細部まで綿密な指示がなされたと言う。なかでも天守の設計には、家光の美意識が強く反映されたと考えられている。 江戸城では実現できなかった華麗さ、格式の高さ、そして芸術性――。将軍家が西国からの防衛拠点として重視した小田原城は、やがて江戸城の「美的な弟分」として、特別な地位を得ていった。 それが、後に家光自らが訪れ、逗留し、眺め、心奪われた天守――。彼が「私の天守」とまで思い入れた建築である。

美しさの記憶、時代を越えて

残念ながら、この天守は今では残っていない。しかし、その姿は「正保図」と呼ばれる絵図に描かれ、伝説と共に後世へと語り継がれている。 松本城の月見櫓を二段重ねたような優雅な造形。朱塗りの高欄に風が吹き、光が差すたびに、その姿は幻想の楼閣のように揺れていたことだろう。 今もなお、小田原城跡に立ち、その歴史を感じるとき――ふと家光のまなざしが、風の中に宿っているような気がする。

家光が愛した奇跡の城

小田原城を訪れるあなたも、ぜひ一度目を閉じて思い描いてみてください。 将軍・家光が見上げたその天守。 愛と美と誇りを映した、小田原の空の下に、確かに存在していた奇跡の城を。