お城通信第25号 |    小田原城天守木造等整備検討会議重ねる

【お城通信vol.25】小田原城天守木造等整備検討会議重ねる

7月15日に第1回が開催された小田原城天守等復元的整備検討会議は、第2回を8月22日、第3回を10 月18日に開催し、多くの課題とその解決方法についての議論を重ねています。天守の建築的な観点からの調査研究は、3基の模型の内、大久保神社模型、東大模型は実測調査が済んで研究論文を提出、来年2月に学会誌に掲載されます。東博模型の実測調査については、今年度内に行えるよう調整しています。
一方、石垣に関する課題は、まさに土台の問題として調査研究を併行していくべきとの議論となり、第3回会議では、江戸城の石垣の調査から修復までに携わった ㈱大崎総合研究所の山内氏にお越しいただき、多くの知見を学ばせていただきました。 山内氏より寄稿していただいたコラムを3回にわたってご紹介します。

お城と石垣

石垣の話に進む前に簡単にお城の成り立ちについて説明します。お城は統治者の居館を守ることを目的に館周りに空壕、水濠、土塁、柵、門等を設け防護を固めたのが始まりです。その後、戦国時代に戦いが激化することで、より防護力を大きくするために地形の険しい場所に山城等が作られるようになります。山城は地域の統治や生活には不便なので、通常は山の麓の居館で暮らし、攻められ、攻められたときに山城立て籠もるという運用が行われていました。これらのお城の特徴として、自然の地形を巧みに利用し、綿密な縄張り(お城の形状)や工夫を行っており、徐々に小規模な石垣が設けられるようになりました。

北条小田原城の空壕、土塁

北条氏時代の小田原城は、都市全体を壕、土塁で囲み、統治・生活・防衛を満足する総構えの大城郭に発展し 、石垣を用いる以前の城郭集大成と言えます。小田原は北条氏時代の城郭遺構が現在も遺されており、これらを見て感じることのできる貴重な場所であると言えます。

戦国時代も末期となり、ここで本格的な石垣や天守の登場となります。城郭へ石垣や櫓を設けた最初は、戦国時代に畿内を最初に統治した三好長慶とその配下の松永久秀と言われています。その後、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康へと、より大規模に発展し引き継がれて行きます。これらのお城の特徴としては、石垣を設けることで、より統治に適した場所に堅固なお城を作ることが可能となったことです。同時に統治者の威光を示す象徴として、守るためのお城から見せるためのお城が作られるようになります。この過程でより大規模な石垣、より壮麗な天守が登場します。

姫路城

特に戦国時代末期から江戸時代初期には全国で築城ブームが起こり、石垣も含めた日本独自の築城技術が短期間に発展しました。現在、我々が見ることのできるお城の多くはこの時代の城郭です。

城郭の石垣-3種類

城郭の石垣は、江戸時代の儒学者である荻生徂徠により石垣に用いる石材の加工度合いで3種類に分類されています。

野面積(のずらづみ)

野面積石垣(犬山城)

石材を加工せず自然石を用いた技法です。

打込接(うちこみはぎ)

打込接(江戸城)

石材をある程度加工し、石面を粗く平らに仕上げる技法で、石材間の隙間は大きく、お城で一番良くみられる 積み方です。

切込接(きりこみはぎ)

切込接石垣(江戸城)

石材間の隙間が小さくなるように加工を施した手間が掛かった技法です。お城の門部分に用いられることが多い積み方です。

前述の築城ブームにより大量に石材の調達が必要となり、山からの石材切り出しが大規模に行われるようになりました。同時に石材の切り出しや加工技術も向上したので、一般的に野面積→打込接→切込接の順に新しくなります。しかし、実際に石垣を観察してみると明確に分類できず、その中間に位置するものもあります。

算木積(江戸城)

同時に石垣角部分に算木積(さんぎづみ)と言われる直方体の築石を井桁状に積む手法が発達し、より高く堅固な石垣を積むことができるようになりました。次号では、お城の石垣の特徴について伝えさせて頂ければと思います。