お城通信第32号 | 金沢城の石垣崩落と小田原城の一部がけ崩れ
【お城通信vol.32】金沢城の石垣崩落と小田原城の一部がけ崩れ

こども電車の前遊具と券売機崩落
私(著者:岩越松男)は8月のはじめに仕事の関係で金沢を訪れたので金沢城を見学しに行きました。その時に目にした石垣崩落のことと台風10号の豪雨によって小田原城の一部でがけ崩れが起きた原因に関連があると思い、今回の通信ではその関連する問題について述べたいと思います。
金沢城の石垣崩落と小田原城の一部がけ崩れ
金沢城は誰もが知る名城です。石川県金沢市に位置する歴史的な城で、加賀藩の藩主である前田家の居城として知られています。城の建設は 1580 年頃に始まり、以降、何度かの改修や再建が行われました。現在の金沢城には天守はなく、いくつかの櫓や楼門を残すのみですが三十間長屋、五十間長屋と規模が大きなものがあります。特に再建された五十間長屋は菱形に作ったそのままずばりの菱櫓に続く多門櫓となっています。その他金沢城の見どころは石垣でしょう。独特の技法で積まれていると言いますが、堅牢で美しさと技術的な巧妙さで素晴らしい石垣でした。中世の山城などとは違って意匠重視の石垣ということでしょう。さすが加賀百万石にふさわしいと思いました。

金沢城は、今年の1月に能登地震で一部の石垣が崩落しました。9月2日に環境再生の活動を通して能登地震の災害復旧に尽力されている矢野智徳氏環境再生区の講演会を催しました。その前々日に台風10号の影響で豪雨が小田原を襲い、小田原城の公園が崩落するという事態が起き、矢野氏とその現場を見ることが出来ました。
金沢城の石垣の崩落と能登地域の崖の崩落個所と共通する問題が見えました。この号では、今回の小田原城の崩落のことと能登震災で被害のあった金沢城の石垣の崩落の比較について述べたいと思います。我々の活動は天守を木造にすることですが 、その周辺のこととも関連していて小田原城の存在自体に地理学的にも大変重要なのだと矢野さんから教えていただき、天守を木造にすることによって及ぼす影響は大袈裟にいえば歴史的建造物の復元にとどまらないと思った次第です。では、それぞれの崩落について比較していきましょう。

金沢城の崩落について書かれた毎日新聞の記事がとても興味を引くものでしたのでここに引用します。
毎日新聞の記事”引用”
「能登半島地震は金沢市の国史跡、金沢城跡にも大きな傷痕を残した。石川県金沢城調査研究所によると、28カ所で石垣が崩落したり変形したりした。比較的新しい石垣の被害が目立ち、研究所は江戸期の石垣づくりの技術が明治期以降に途絶えたことが一因とみている。」
この記事では石垣の積み方が明治の時代の技術不足ではないかと指摘していますが、その技術不足について何が途絶えたのかは書かれていません。そのことは多くの専門家もきちんと指摘する人がおらず、漠然と述べているにすぎないのだと思います。
私が最近注目しているのは、もっと広い範囲の環境との調和を考えて城づくりは出来ているということです。それが明治の時代に石垣の積み方だけでなく、これまでの日本の風水害を経験して乗り越えてきた知見や技術が顧みられず、周りの環境との調和を忘れてしまった結果ではないでしょうか。大地の再生を訴えている矢野智徳氏の言葉を借りれば『大気・大地・水脈』江戸時代おそらく中期までの人たちはこの理を熟知して石を積んでいたのではないかと思います。水と空気が目詰まりしていると崖は崩落することを矢野氏から教わり、そうゆう視点で金沢城の石垣の崩落個所を観察してみました。金沢城玉泉院丸口の階段を上ったあたりの石垣の崩落現場を見ましたが、樹が生えていたので人によってはその木が原因と思う方もいるでしょうが、それよりもその下の駐車場が目詰まりの原因を作り水脈の詰まりを起こしたことによる崩落と私は見ました。樹木もそれが原因で根が痛めつけられ崩落を誘発したのだと思います。これについては丸亀城の石垣の崩落について清水建設の石垣専門の研究者が指摘していたのは、目詰まりが原因で水をはき切れずに水を含んだ土圧が原因ということを言っています。松山城の土石流(報道ではがけ崩れと言っている)も土中環境について述べている高田宏臣氏は下流部の都市開発による目詰まりが原因と指摘しています。私は8月の後半に能登へ1週間、矢野氏と各地域の崩落個所を見てきてそのことを実感しました。

こども電車の前遊具と券売機崩落
今回の豪雨による小田原城の被害を見て金沢の石垣のことをフィードバックしてみると共通した問題があると感じています。科学的エビデンスは取れていませんが、矢野氏が空気と水脈の視点から理化学的、人文的視点を融合した学会をつくることになったのでそのエビデンスはいずれ証明されると期待しています。要は小田原城天守を木造にすることは単に歴史的建造物の復元だけでなく、その周辺のその時代の土木技術全般も見直してお城が環境を配慮して建てられたことを、今日的に言えば循環する機能の要として天守とその周辺の普請も含めてそうした機能が備わっていて、そこから学ぶことは未来の私たちの社会の在り方を示唆しているのだと思いました。唐突に天守木造のことから飛躍した話になってしまいましたが、私自身としては木造復元を実現するとともに、こうした重要な意味も噛みしめながら当会の活動が成就していくことを願ってやみません。矢野氏が小田原城は関東の西の端にあって重要な場所であると言うことが耳から離れません。