お城通信第34号 | 小田原を五代に亘って治めた北条家の開祖である北条早雲
【お城通信vol.34】北条早雲の話

小田原城郭が大森氏の時代から江戸から現在に至るまで、どのように変遷していったかを俯瞰できるパンフレットを、3団体〔小田原城と緑を考える会、小田原城郭研究会、NPOみんなでお城をつくる会〕の共同作業により制作しました。本号では、小田原を五代に亘って治めた北条家の開祖である北条早雲について解説します。
第2話北条早雲の話
1)北条早雲の出自
北条早雲(伊勢新九郎盛時)は、近年の研究で室町幕府の高官の家柄であったことが明らかになっている。彼の家は、幕府内で将軍に意見を述べたり、政務を担当できるほどの立場にあった。もともとの所領は現在の岡山県周辺に広がっていたとされるが、彼自身は京都に住み、中央政界で活動していたと考えられている。
従来、早雲は「素性の知れない成り上がり者」とする説が広まっていたが、これは後世の創作によるもので、実際には幕府の意向を背景に活動していた人物であった。彼の駿河国(現在の静岡県)への下向も、自身の一族が関わる今川家の家督問題を調停するためであり、正式な幕府の命を帯びた行動であった。
このように、北条早雲は地方豪族ではなく、京都の中央政界に繋がりを持つ武士であり、政治的な手腕を持つ人物だった。その後の関東での躍進も、幕府の権威を巧みに利用した結果であったと考えられる。
2)早雲が小田原を攻め落とすまで

北条早雲が関東へ進出するきっかけは今川家の家督争いである。彼の妹が今川義忠に嫁ぎ、その遺児今川氏親の後見役として駿府(静岡)に下向した。早雲は一度京都に帰ったが、今川家内部の争いが再燃すると、再び駿河へ戻り、敵対勢力を討伐。その功績により、今川家から「興国寺城」(現在の静岡県沼津市)を与えられ、初めて領主となった。その後、彼は戦略的に領地を拡大し、明応末年頃(1495~1500)に小田原城を攻めた。この時の小田原城主は、大森藤頼であったが、当時大森氏は幕府に敵対する立場にあり、これも早雲に大森氏攻撃に必然性を与えたものと考えられる。従来の説では「箱根で狩りをするなどと称して奇襲した」とされていたが、実際には時間をかけた交渉や戦略によって小田原城を攻略した可能性が高い。
小田原を手中に収めたことで、早雲は関東での足場を固め、後の戦国大名・北条氏の基盤を築くことになった。
3)小田原を治めてからの居場所

小田原城を手に入れた後も、北条早雲は小田原に住まず、伊豆の韮山城(現在の静岡県伊豆の国市)を本拠とした。これは、彼が今川家を主家と考えており、駿府と密接な関係を保つために、伊豆半島に拠点を構えたためである。
韮山城にいれば、駿河の今川家と迅速に連絡を取ることができた。一方で、小田原は箱根山を越えなければならず、駿府と連携するには不便だった。
そのため、早雲は領地拡大後も韮山城を本拠とし、小田原には駐在せず、実際の統治は家臣に任せていた。
このため、厳密には「小田原城の初代城主」は北条早雲ではなく、彼の子・北条氏綱が初代城主と考えられる。後世では、早雲を「小田原城主」とする説が広まっているが、実際には彼は伊豆を拠点とし、小田原はあくまで征服した領地の一つに過ぎなかった。
小田原城天守3模型の調査研究の進捗
当会研究員の宮本、高橋によって、これまで、3基現存する模型の内、東大模型、大久保神社模型の調査を済ませて、その研究成果が査読付き論文になりました。そして、今年2月に、「東博模型」の実測調査を行いました。神奈川県立歴史博物館に展示保管されている東博模型は、その痕跡から近代から現代にかけて、複数回に渡って修理がなされたようです。例えば最上階のいわゆる「摩利支天像安置空間」にも手が入れられている様子が窺えました。また、他の模型にはない階段の踊場と思われる表現があることは新たな知見に繋がるかもしれません。外部の作り方は荒いのですが、内部の構造表現は作り込んだ印象を受けます。今後も検証を続け、模型3基の歴史的位置づけを図りたいと思います。