小田原、猛将に挑む 〜上杉と武田を迎え撃った誇りの城〜

小田原、猛将に挑む 〜上杉と武田を迎え撃った誇りの城〜

時は戦国、相模の雄・北条氏康の治世。 その小田原城に、二度にわたり“東国の猛将”たちが襲いかかった―― ひとりは越後の龍、上杉謙信。 もうひとりは甲斐の虎、武田信玄。 小田原城にとって、それはただの戦ではなかった。 城の「意思」をかけた、迎撃の物語であった。

第一の波:上杉謙信、小田原を攻む

永禄4年(1561年)、上杉謙信は大軍を率いて小田原の地に迫った。 しかし、彼が見たのは、ただの堅牢な城ではなかった。 それは、敵を迎え撃つために設計された「攻撃型の城」だった。 小田原城の大手門――蓮池のほとりに設けられたその正門は、 ただ守るだけではない。あえて敵を招き入れ、細長い曲輪(くるわ)に誘い込み、 四方から横矢で討ち倒す構えになっていた。 敵が前進すればするほど、逃げ場は狭まり、堀に追い込まれる。 土塁の陰からは、城兵の矢が雨のように降り注ぐ。 このように当時の小田原城大手門は「攻撃的な」構成であった。

第二の嵐:武田信玄、松田家の屋敷を焼く

それから8年後、永禄12年(1569年)。 今度は甲斐の虎・武田信玄が、奇襲のごとく小田原へ現れる。 城主・氏康の留守の間を狙ったこの攻撃で、信玄は北条氏筆頭家老・松田氏の城下屋敷を焼き払った。 それは、籠城に徹する北条軍に城からの出撃を誘ってのことだったが、ついに小田原城は応じなたっか。主力は遠征中、兵の呼び戻しもままならぬ中、籠城こそ最善の策。 焦った信玄は、箱根山の麓に近い風祭の丸塚に旗を立てた。 そこは小田原城の急所に近い、まさに「地続き」の攻め口――。 もし馬で駆け降りられたら、信玄の最強の騎馬軍団をもってすれば、小田原はひとたまりもない――。 だが、運命は小田原城の側にあった。 武田軍はそれ以上の進撃を断念。信玄はついに三増峠をへて甲府へと引き上げる。

策の勝利、それは誇りの構え

小田原城が守り抜いた鍵は、その「構え」にあった。 敵を誘い込む曲輪、天然の池を繋げた防御線、谷津口に通じる狭路。 城を囲む土塁と空堀はすべて、石垣なき土の城でありながら、圧倒的な防御力を持っていた。 そして何よりも、戦いの「礼儀」を重んじ、正面から堂々と挑む誇り―― それこそが北条氏康の信念であり、小田原城の魂であった。

小田原城の「意思」

小田原城を訪れる時、ふと立ち止まって想像してみてください。 上杉の軍が進み、武田の騎馬が山を下って攻め込もうとした時、 迎え撃ったのは、兵士達の知略と覚悟。 そして、城を愛する者たちの誇りだった――。