小田原、最後の三ヶ月 〜北条五代、誇りの籠城〜
小田原、最後の三ヶ月 〜北条五代、誇りの籠城〜
戦国最後の大舞台が、相模の小田原で繰り広げられたのは、天正18年――。 豊臣秀吉の天下統一の野望が、いよいよ関東の雄・北条氏を包囲する時がやってきた。 それは、静かな春のはじまりだった。
総構え、築かれし難攻不落の城
4月、北条氏は、22万とも言われる大軍と敵対することになった。だが、北条氏は恐れなかった。 城の周囲には、全長12kmにも及ぶ「総構え」と呼ばれる大外郭――巨大な空堀と土塁によって守られ、各地の支城にも合戦の準備は徹底していた。 その堀は深さ20メートル、内部には移動を妨げる仕切りがあり、堀底での移動を不可能にしていた。 築かれたのは戦うためではなく、「一年、籠城しきれば勝てる」という北条の経済戦略だったと考えられる。 秀吉の大軍が全国から兵糧を買い占め、農地も荒れ、兵も疲弊するのは時間の問題。 持久戦に持ち込めば、必ず向こうが音を上げる――それが北条の読みだったのであろう。
揺れる士気、誤算の始まり
だが、戦いは思わぬ方向へ転がっていく。 山中城はわずか一日で陥落。さらに北条の支城が次々と落とされていく。 問題は、支城の城主たちを小田原本城に集めてしまっていたこと。 残された各城には家老たちが指揮を執るも、士気は低く、粘りを欠いた。 「もはや、孤立無援ではないか――」 本丸を守る者たちの間にも、不安が静かに忍び寄っていった。
絶望の中の反撃、久野口の夜襲
そんな中、小田原勢は夜の帳に紛れて、一矢報いようと動き出す。 神山神社へ続く丘、久野口――そこを目指して、密かに城兵が打って出た。 守るだけでは士気が落ちる。ならばこちらから突撃し、背後を突いて、静かに引き返す。 まさに命を賭けた決死の夜襲だった。 だが、それも一時の炎。秀吉の包囲はさらに厳しさを増していく。
一夜城と、秀吉の策謀
秀吉の築いた城のいくつかは一夜城伝説が語られるが、石垣山一夜城にもこれがある。 しかし、小田原が降伏を決断した真の理由は、外の支城の陥落と、支援の糸が次第に断たれていったことにあった。
家康、静かなる影
北条氏直の義父である徳川家康。彼は秀吉輩下の諸将が丘陵地に陣を張る中で、唯一、平地に本陣を構えた。 その立場は微妙だった。娘を嫁がせた北条への情と、秀吉への忠義のはざまに在る立場を世間では種々に憶測した。 家康は内々に北条へ説得を続けていた。「時代は変わった」と。 そして最終局面――氏直は父・氏政の命を助けることを条件に、自ら家康のもとを訪れ、開城を申し出た。 ほぼ同じ時刻、氏康の四男であり、家康の幼馴染である氏規が、講和の条件を手に箱根口門から城へ戻っていた。 だが、時すでに遅し。秀吉が応じたのは、降伏の意志を伝えた氏直のほうだった。
北条の終焉、そして伝説へ
7月。三ヶ月の籠城は、ついに終わりを告げた。 北条氏政は切腹。小田原北条五代、百年の栄華はここに潰える。 だが、その誇りと理想、民のための籠城の思想は、今も小田原の地に息づいている。 総構えの遺構、石垣山の残影、山中城の土塁…… それらが語るのは、戦いの果てではなく、「耐え忍ぶ」というもう一つの戦国の形。
歴史が息づく地の問い
小田原の城を歩けば、風が語りかけてくるかもしれない。 「勝つとは何か。守るとは、どういうことか」と。 それは、今もなお続く、北条の問いかけなのかもしれない。
