総構えの誕生 〜人と土が築いた、最後の希望〜
総構えの誕生 〜人と土が築いた、最後の希望〜
その城は、まるで山そのものだった。 大地に深く刻まれた空堀。幾重にも重なる土塁。 そして、それらを支えたのは、兵ではない。――人々の想いだった。 時は戦国の終わり、天正15年。 小田原北条氏は、前代未聞の城を築き始めた。 迫るは、天下人・豊臣秀吉の大軍。 それに備えるために生まれた、史上最大の中世城郭。 その構成要素は「総構えの深い空堀と高い土塁」。
天然の守りなき地に、人工の砦を
三の丸の外側、かつては田畑や集落だった一帯。 そこに築かれたのは、すべてが“人工”による要塞だった。 山も岩もない、関東の丘陵地。 だが人々は知っていた――この地には「土」がある。 しかも掘れば急崖になる関東ロームの厚い層。 これを活かせば、巨大な防衛線が築ける。 城の堀は深く、掘った土を内側へ積み上げて土塁とし、 それが連なれば、まるで巨大な波が街を包み込むようだった。 その規模、実に三里――およそ12キロ。 日本で初めて、城と城下町をまるごと囲い込む「都市型の防衛線」が誕生した瞬間だった。
集まれ、鍬ともっこを手に――
この壮大な計画に動員されたのは、武士を含む農民、職人、僧侶、神職―― 北条氏は関八州に号令をかけ、すべての村、寺社にまで負役を命じた。 「これが最後の非常時である。鍬ともっこを持って集まれ。」 その呼びかけに応じて人々は集まった。 ある寺には「何人を何日動員せよ」、ある神社には「昼食を支給せよ」と細かく命じられ、 やがて小田原の地は、土の城を築く巨大な建設現場と化した。 ただの強制ではない。 人々もまた知っていた。秀吉の領地となれば、重税と略奪が待つかもしれないことを――。
計画か、追い込まれた奇跡か
学者たちは今も議論している。 この「総構え」は、計画的な防衛構想だったのか、あるいは秀吉に追い込まれた末の苦肉の策だったのか。 三の丸外郭が完成した時点で、小田原城としての機能はすでに完結していた。 それ以上、拡張する必要はなかったはず。 だが、天正15年に秀吉の影が関東に迫ったとき―― すでに工事は始まっていた。 おそらく、武田信玄の侵攻の記憶もまだ新しかった。 その直後から、徐々に防衛線は外へ外へと広がり、 天正17年から18年にかけて、一気に総仕上げへと向かったのだろう。 完成を見たのは、秀吉の到着直前。 部分的には未完のまま、総構えは「時代に挑む壁」として立ち現れた。
人がつくり、人が守った城
この総構えを見て、「土の城」だと侮る者は、誰一人いなかった。 巨大な堀、二重張の構造、緻密に計算された高低差―― それは、江戸期の石垣城にも劣らぬ完成度を持ち、しかも、それを短期間で築いたのは「民」であった。 東国の人々が、自分たちの土地と家族を守るために、 鍬を持ち、土を担ぎ、塁を積み上げて築いたこの城。 それは単なる戦術ではない。 「この城を奪わせない」という誇りが、総構えを完成させたのだった。
人々の想いが築いた城
今、小田原を訪れ、その緩やかな丘や曲がりくねった道を歩くと、 かつて人々が手で築いた巨大な意志の痕跡が、ひっそりとそこに息づいている。 総構え―― それは、武器ではなく、知恵と団結と希望が築いた、もう一つの戦国の奇跡である。
