小田原城の天守を木造で復原することに取り組んでいます。(H)

小田原城天守事始め ~木造天守への道~


第15回 小田原城天守と現存天守との比較-番外編-

今回は小田原城天守との比較の番外編として、姫路城天守を取りあげたいと思います。小田原城天守の約100年前に建造されました。また現存天守でこのような長大な通し柱を使用した例は他にありません。指物とともにその構造的な特徴をご紹介したいと思います。

全体の構成と東西2本の通し柱(大柱)

姫路城天守は5重6階地下1階の望楼型で、小田原城天守より桁行で約6m、梁間で約2m大きく、高さは約4m高いという大きさです。低層部(黒枠)に上層部(黄枠)が載るという構成で、中央部に長さ約25mの2本の通し柱が見られます。入側にも2階分ほどの通し柱はありますが、特に3階から4階は側柱を除いて直接その上階を支持する通し柱はなく、低層部と上層部が3階を境に構造的に分離しているようにも見えます。

姫路城天守立面・断面


指物は軸部を固め、かつ床梁でもありますが、桁行(緑)梁間(黒)とも各階の床梁は中央の通し柱に指し付いています。つまりこの2本の通し柱に多くの床荷重が集中していると言えます。向かって右側の通し柱は1本ものですが、左側は3階で継がれています。これは軸部を組み立てる際の手順が影響し、この位置に継手を設けたのではないかとされます。柱に指す、という施工が、部材の構成にも影響を及ぼすことを再考させられる事例です。

引図と断面


「小田原城三重天守引図」から測定した中央の心柱(「将軍柱」)は約23mあります。姫路城天守の事例から考えると、1本ものだったと思いたいのですが確証はありません。学術的には、天守の型の発展に従い、姫路城天守のような長大な通し柱は使用されなくなったとされますが、層塔型が浸透していた約100年後にも小田原城天守のような心柱が使用されていた可能性があるのは、技術史上の位置づけとして非常に重要なことだと著者は考えます。

次回からは「小田原城三重天守引図」からみた、天守の建て方の手順を立体投影図とともにご紹介していきたいと思います。お楽しみに。

図版出典:『国宝姫路城大天守保存修理工事報告書』
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