小田原城天守事始め ~木造天守への道~
第17回 「東博模型」と「引図」からみた軸部の組み立て方について①
今回から数回に渡り、天守の軸部の組み立て方について推定した内容をご紹介します。あくまでもひとつの可能性に過ぎませんが、体系としての木造技術を捉えるにあたって、このような考察は非常に有意義だと考えています。なお、附櫓・続櫓については割愛しています。
1階から2階
天守台石垣については、古い絵図から、当時も現在のようなL字形式であったとされています。東側(現・本丸広場側)は2段になっていますが、勉強不足でその理由までは存じません。全くの想像ですが、ここに荷揚げ用の足場を組んだのかも、などと思っています。
二つの史料から、身舎に土台はなく入側のみであったことがわかります。まず①土台を敷きますが、組み立ての手順からして東側は後で納めたものと推定しました。次に②入側管柱を建てます。この柱でさえ約9mありますので、貫を入れながら建てるにしろ柱を自立させるには、身舎部分に足場を組むなど、相応の工夫があったものと思います。
そして③側柱と足固めを納めながら入側を自立させていきます。側柱が先だったかもしれませんが、いずれにしろ身舎部分がある程度組み上がらないと東側の軸部は納められなかったのではないかと考えました。次に④身舎柱や心柱などを建てながら足固めを納め、入側と繋いでいきます。身舎柱は計8本しかありませんので、入側部と身舎部の接合の程度は薄いと言わざるをえません。
なお、ここでは表記していませんが、柱を建てながら貫を入れていく作業が必ずありますので、実際の組み立て手順の段取りはもっと複雑だったはずです。当時の棟梁以下、大工さん方の凄味を感じないわけにはいきません。
次回以降も引き続き、このような立体投影図で著者が推定した組み立て方をご紹介していきたいと思います。お楽しみに。
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