小田原城天守事始め ~木造天守への道~
第20回 架構からみた小田原城天守
前回まで数回に渡り、天守の組み立て方の考察をご紹介しました。今回はこれまでの総括と、今後の調査研究の課題が何なのかを見ていきたいと思います。なお今回をもちまして、とりあえず本コラムの第一部を終了したいと思います。
天守の発展過程における「宝永度小田原城天守」
第3回で少しご紹介しましたが、例えば通し柱に注目した場合、学術的には天守が望楼型から層塔型へ発展していく過程で、姫路城天守のような長大な通し柱は次第に使用されなくなり、2階分の通し柱が整然と配置される形式へと変遷していったとされています。
その代表例が「寛永度江戸城天守」ですが、姫路城天守から約30年でここまで架構が整理されています。しかし姫路天守から約100年後に、姫路城天守よりやや小さい「宝永度小田原城天守」が長大な通し柱を活用しながら建造されました。この意義は、天守の構造の変遷を捉える上でも非常に重要だと考えています。
著者がこのような考察に辿り着けたきっかけは、引図の存在に他なりません。繰り返しになりますが、西博士を中心とした調査団の報告書では、主に3基の模型の比較検討と最上階の「摩利支天空間」の新知見が主題でしたので、引図については詳細な調査研究はなされていません。
「東博模型」土台修理の痕跡など
近日中に再度引図の調査が許可される予定ですが、より詳細にそこに描かれた情報を読み解きながら、改めて3基の模型との比較研究が必要だと考えています。また東博模型についても、既に知られていることですが、土台などに修理の痕跡が見られることから今後詳細な再調査が必須です。
今回で第一部は終了しますが、調査研究を進めていく上で新たな情報や知見が得られればまたみなさんにご紹介していきたいと思います。
拙いながらの全20回、ご高覧戴きましてありがとうございました。
小田原城天守調査研究室
宮本 啓
※個々の写真・図版のSNS等への転載はご遠慮ください。
Follow @OdawaraOshiro